【アーティストプロフィール】
鈴木昭男(すずき あきお)
1941年生まれ。1963年、名古屋駅でおこなった《階段に物を投げる》以来、自然界を相手に「なげかけ」と
「たどり」を繰り返す「自修イベント」により、「聴く」ことを探求。
1970年代にはエコー楽器《アナラポス》などの創作楽器を制作し、演奏活動を始める。
1976年の個展「音のオブジェと音具展」(南画廊、東京)や1978年フェスティバル・ドートンヌ・パリ出場を機に素材そのものから音を探る「コンセプチュアル・サウンドワーク」を展開し1987年にドクメンタ8に出場した。
1988年、子午線上の京都府網野町にて、一日自然の音に耳を澄ます《日向ぼっこの空間》を発表。
1996年に街のエコーポイントを探る「点 音」プロジェクトを開始。
大英博物館(イギリス、2002年)、ザツキン美術館(フランス、2004年)、ボン市立美術館(ドイツ、2018年)、東京都現代美術館(2019年)など、世界各地の美術展や音楽祭での展示や演奏多数。
≪鈴木昭男HP:https://www.akiosuzuki.com ≫
【作品への想い】
「era – scores MON MON
鈴木昭男 いつの頃かに、どこかの美術館のショップで買ったシグマー・ポルケ Sigmar Polkeの作品カードが、
今もぼくの仕事机の横壁にピンナップしてある。
ドイツの好きな作家であり、ぼくと同年輩でもあった。
誕生日プレゼントに、友人たちから彼のカタログを、よくプレゼントされた。
きっと、いつまでもこのカードが傍に飾ってあったからかも知れない。
音に目覚めたあとに、上京し美術界への憧れもあった頃、作曲法を模索するなかで、朝に目覚めの印象を日々俳句まがいに描きとめていた図形があった。
一瞬にして描きあげたそれを、ピアノの譜面台に掲げての即興を、詩人の故鍵谷幸信さんが泉岳寺にあったアトリエを訪ねて下さった折に披露したら、「今度の西部劇場での、H氏賞授賞式のアトラクションでこれをやってくれないか」との話が、即まとまってしまった。 武満徹さんプロジュースの「今日の音楽」(渋谷・西武劇場)の最終日のチケットを手に入れて行ってみると、確かフランソワーズ・ビュッケという人がスタインウエイを弾いていた。
今度あれを弾くんだと、わくわくするものがあった。
当日になり準備時間に劇場入りしてみると、ステージにはヤマハが置かれていた。
若かったぼくは、スタインウエイをお願いしてカフェに出た。
ステージ脇の奥には、キルティング・カバーをされたそれが、いつの日かの出番まで眠りに入っていたのだったが・・・・。
鍵谷さんの「新人です・・・・」との紹介があって、だれかに背中をつかれて眩い場所に転がり出た。
ピアニストは先にお辞儀をするものだったか ? との思いが一瞬脳裏に走ったのを覚えている。
背のある椅子に座ってみると、へそが鍵盤すれすれの位置ににセットされていた。
ステージ慣れのないぼくは、その姿勢のまま《脱兎のごとく始めるはずだった》曲に取り付いたところ、右薬指があまりの鍵盤の硬さでツルリと滑ってしまった。
ヤマハにしておけば良かった・・・・との後悔と同時にあがりがきて、前席の人たちからは「どどどど」との貧乏ゆすり的なペダル使いを見られてしまっただろう。
このタッチの重さを利用してと、心が落ち着いた頃には、終盤となり、あとに招待されていたパーティーを蹴って我が家に駆け戻り、押入れで丸くなり悲嘆に暮れた次第。
ところが、三日後になって新宿のライブハウス「ピットイン」から「先日のあれをやってくれないか」と、電話が鳴った。
そして、ヤマハが待っていた。
こんどこそはと挽回に勤め、昼の部の数十名の人たちが下さった拍手が立ち直りのきっかけとなった。
「日本の詩祭」(’75)頃の話でした。
美術界の練金術師とも言われたシグマー・ポルケが開かれエポックメイキングな手法を追っていたころ、ぼくは、エネルギーの行き先をもとめて「悶々症候群」のなかで日を送っていました。
今になって、その頃の遺物を紐解いてみると、いくばくかそれらが成長していて今を励ましてくれることがあります。
年月が経ってみると、手法すら思い出せないものが出てきます。
コラージュなのか、それのコピーなのか印刷だったか・・・・、最終を決めるのは作家の心意気だということを、オリジナル信奉の有り様から解き放ってくれたのもシグマー・ポルケです。 鈴木昭男」